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創立期の人々(新渡戸稲造・安井てつ・ライシャワー)

新渡戸 稲造(1862~1933)

新渡戸写真

 新渡戸稲造は、東京女子大学の初代学長です。東京女子大学の設立準備を進めていたアメリカ、カナダの人々は、キリスト教信者であり、国際的視野が広く、一流の学者で女子教育に理解のある新渡戸を初代学長に推挙しました。新渡戸は、札幌農学校時代に入信し、その後アメリカで勉学中にクエーカー派に帰したのです。
 学長就任後の1920年5月、国際連盟事務次長に就任した新渡戸は、スイスのジュネーブに赴任することになり、1923年学長職を辞し、名誉学長に推挙されました。その後も折りに触れて学生に宛て手紙を書いたり、帰国した時には本学を訪れて講演を行うなど、学生に大きな影響を与えました。1922年3月の第一回卒業式の時、ジュネーブから卒業生に宛てて書かれた手紙は、当時の安井学監により代読され、深い感銘を与えました。それは、東京女子大学の精神を表すものとして読み継がれています。
  S (Service)と S (Sacrifice)を組み合わせた校章を決めたのは新渡戸でした。そして折りあるごとに「犠牲と奉仕」の生活の尊さや、日毎に瞑想と祈りの時をもつべきことを教えたのです。彼は学生一人ひとりのことを心に留め、温かく導きました。寄宿舎を時々訪ね、学生と食事をともにしながら国内外での豊富な経験談を夜の更けるのも忘れて語り、また、寄宿舎の学生のために雛人形をプレゼントしたといいます。学者・教育者・行政家・国際人などさまざまな立場で多くの業績を残した新渡戸の蔵書は本学にも寄贈され、大学図書館内の新渡戸稲造記念文庫に収められています。
 多くの人々に惜しまれつつ1933年10月、72歳の年、カナダの地で死去しました。

安井 てつ(1870~1945)

安井写真

 安井てつは、東京女子大学創立の時、49歳で学監に就任、その5年後に新渡戸稲造の後を継いで第2代学長として、1940年までの17年間その任にあたりました。
 安井は、東京女子師範学校卒業後、イギリス留学中にキリスト教の信仰を持ち、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学で教育学・心理学などを修めました。1904年から3年間、タイ(当時、シャム国)の皇后女学校教育主任を務めたのち、ウェールズ大学にも学びました。
 安井にとって東京女子大学は、理想とする教育ができる場であり、キリスト教精神がかもしだす東京女子大学の雰囲気を"Something"と呼んで大切にしました。高い理想をもちつつ、学生一人ひとりの人格を尊重し、その誠実で愛情ある態度や真摯な訓話などから、学生、教職員の尊敬を集めました。
 1928~1929年に共産党員に対する検挙が行われ、東京女子大学の卒業生が、また、1931~1932年になると在学生も検挙されました。安井はその学生たちを深く思いやり、励まして送り出したといいます。留置された学生のためいろいろ差し入れもしました。
 太平洋戦争がはじまる直前、文部省の役人が学校としても個人としてもアメリカやカナダの人と連絡を断って欲しいと要求しました。しかし、安井は学校の恩人であるそれらの人々と手を切ることなどできないと一歩も後に退きませんでした。また、戦争中、英語は敵国語だからということで英語専攻部廃止の声も大きくなりましたが、安井の強い反対でそのまま続けることができたのです。
 1945年12月、76歳で安井は死去しました。激動の時代の中で、女子高等教育に尽力した一生でした。

A.K.ライシャワー August Karl Reischauer (1879~1971)

ライシャワー写真

 アメリカ長老派教会の宣教師として1905年に来日。その後、シカゴ大学、ニューヨーク大学で、神学博士の学位を取得したのち、再来日し、明治学院高等学部長を務めました。日本文化の研究・紹介に貢献すると共に、東京女子大学の設立に参画。設立代表者として、のちに常務理事として財政を担当しました。在米協力委員会との折衝にあたり、本学設立期の困難な財政を支えました。また、肺炎で聴覚を失った愛娘を育てた経験から、へレン夫人と共に日本聾話学校を設立しました。1954年には勲三等瑞宝章が授与されています。次男のE.O.ライシャワーは日本研究者として著名で、ハーヴァード大学教授として多くの日本研究家を育成し、東京女子大学比較文化研究所設立を助け、のちに駐日大使を務めました。