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創立期の人々

1900年、世界37カ国が参加する万国博覧会が開催されていたパリ。この街で、万博の審査委員として滞在していた新渡戸稲造と、第二次の女子官費派遣留学生としてイギリスで学び、帰国の途にあった安井てつは出会いました。


日本の女子教育の必要性を早くから示唆し、『Bushido:The Soul of Japan(武士道)』を前年に書き終えたばかりの新渡戸と、差別のない大学教育を日本の女子に与えたいという思いを強めていた安井。初対面にもかかわらず「スピリッチュアル・フレンドに相成り」「二十年以来の胞友の如く」と安井が友人への手紙に記すほどの運命的な出会いでした。


その18年後、北米のプロテスタント諸教派の援助のもと、1918年に東京女子大学は開学しました。初代学長新渡戸、学監安井(のちに第2代学長)、そして常務理事として、1915年から設立のための委員を務めていたA.K.ライシャワーが就任。当時の日本の教育制度では閉ざされていた、女性への大学の問戸を開放し、キリスト教主義に立脚した最高のリベラル・アーツ教育を行うことを目指しました。


創立以来の理念は、単に知識を求めるだけではなく、人間としての英知を養う教育。「豊かな教養に基づく幅広い視野と高い専門性を身につけ、自立した女性を育てたい」その情熱は変わることなく、女性の生涯を支援していくための大学へと発展し、卒業生たちは、日本中で、そして世界で活躍しています。



新渡戸 稲造

新渡戸稲造(1862~1933)は、東京女子大学の初代学長です。東京女子大学の設立準備を進めていたアメリカ、カナダの人々は、キリスト教信者であり、国際的視野が広く、一流の学者で女子教育に理解のある新渡戸を初代学長に推挙しました。新渡戸は、札幌農学校時代に入信し、その後アメリカで勉学中にクエーカー派に帰したのです。


学長就任後の1920年5月、国際連盟事務次長に就任した新渡戸は、スイスのジュネーブに赴任することになり、1923年学長職を辞し、名誉学長に推挙されました。その後も折りに触れて学生に宛て、手紙を書いたり、帰国した時には本学を訪れて講演を行うなど、学生に大きな影響を与えました。1922年3月の第一回卒業式の時、ジュネーブから卒業生に宛てて書かれた手紙は、当時の安井学監により代読され、深い感銘を与えました。それは、東京女子大学の精神を表すものとして読み継がれています。


S (Service)と S (Sacrifice)を組み合わせた校章を決めたのは新渡戸でした。そして折りあるごとに「犠牲と奉仕」の生活の尊さや、日毎に瞑想と祈りの時をもつべきことを教えたのです。彼は学生一人ひとりのことを心に留め、温かく導きました。寄宿舎を時々訪ね、学生と食事をともにしながら国内外での豊富な経験談を夜の更けるのも忘れて語り、また、寄宿舎の学生のために雛人形をプレゼントしたといいます。学者・教育者・行政家・国際人などさまざまな立場で多くの業績を残した新渡戸の蔵書は本学にも寄贈され、大学図書館内の新渡戸稲造記念文庫に収められています。多くの人々に惜しまれつつ1933年10月、72歳の年、カナダの地で死去しました。


安井てつ

安井てつ(1870~1945)は、東京女子大学創立の時、49歳で学監に就任、その5年後に新渡戸稲造の後を継いで第2代学長として、1940年までの17年間その任にあたりました。安井は、東京女子師範学校卒業後、イギリス留学中にキリスト教の信仰を持ち、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学で教育学・心理学などを修めました。1904年から3年間、タイ(当時、シャム国)の皇后女学校教育主任を務めたのち、ウェールズ大学にも学びました。


安井にとって東京女子大学は、理想とする教育ができる場であり、キリスト教精神がかもしだす東京女子大学の雰囲気を“Something”と呼んで大切にしました。高い理想をもちつつ、学生一人ひとりの人格を尊重し、その誠実で愛情ある態度や真摯な訓話などから、学生、教職員の尊敬を集めました。1928~1929年に共産党員に対する検挙が行われ、東京女子大学の卒業生が、また、1931~1932年になると在学生も検挙されました。安井はその学生たちを深く思いやり、励まして送り出したといいます。留置された学生のためいろいろ差し入れもしました。


太平洋戦争がはじまる直前、文部省の役人が学校としても個人としてもアメリカやカナダの人と連絡を断って欲しいと要求しました。しかし、安井は学校の恩人であるそれらの人々と手を切ることなどできないと一歩も後に退きませんでした。また、戦争中、英語は敵国語だからということで英語専攻部廃止の声も大きくなりましたが、安井の強い反対でそのまま続けることができたのです。1945年12月、76歳で安井は死去しました。激動の時代の中で、女子高等教育に尽力した一生でした。


A.K.ライシャワー August Karl Reischauer

A.K.ライシャワー(1879~1971)は、アメリカ長老派教会の宣教師として1905年に来日。その後、シカゴ大学、ニューヨーク大学で、神学博士の学位を取得したのち、再来日し、明治学院高等学部長を務めました。日本文化の研究・紹介に貢献すると共に、東京女子大学の設立に参画。設立代表者として、のちに常務理事として財政を担当しました。在米協力委員会との折衝にあたり、本学設立期の困難な財政を支えました。また、肺炎で聴覚を失った愛娘を育てた経験から、へレン夫人と共に日本聾話学校を設立しました。1954年には勲三等瑞宝章が授与されています。次男のE.O.ライシャワーは日本研究者として著名で、ハーヴァード大学教授として多くの日本研究家を育成し、東京女子大学比較文化研究所設立を助け、のちに駐日大使を務めました。