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聶 莉莉先生/Riri Nie


現代教養学部 国際社会学科 国際関係専攻 教授
専門分野:文化人類学


もっと現実を認識できる学問を学びたかったのです。

現在東京女子大学にて文化人類学の教授として教鞭を執っている聶莉莉先生。上品で聡明な雰囲気をまとう先生だが、実は、波乱に満ちた人生を歩んできた。


教育機会の喪失

1966年から始まった文化大革命の影響で、小学校高学年以降の勉強を受けられずにいた。中学校へ進学したものの、ほとんど教室で授業を受けられず、かわりに工場や農村へ行って働き、労働者や農民が学ぶような教育を受ける日々を過ごした。中学校を卒業した後も、8年間北京大学の付属工場で労働者として働いた。

そんな聶先生は、なぜ研究者としての道を歩むようになったのだろうか。


「思春期と青年期を文化大革命の混乱の中で過ごした私は、中国の社会や、政治体制、イデオロギーなどに対して多くの疑問を感じていたので、もっと歴史や現実を認識する力を得たかったのです」


掴み取ったチャンス

「1977年に文化大革命が終わって、やっと大学が受験で入学することができるようになりましたが、入学試験のために、小学校高学年から高校3年生までの学習内容を独学しなければならないような現実に直面しました。どうしても大学に入りたかったので、周囲の親切な人びとの力も借りて勉強に励みました」


同じ工場で働いていた技術者や教授たちに数学や古典などを教えもらいながら、朝と夜など勤務時間以外の休み時間で一生懸命に受験勉強をした。大学入試には二回挑戦して、やっと進学の思いが叶った。
「大学で幅広く知識を吸収したい」という考えから哲学専攻を選択した。しかし、当時の中国で学べた哲学は、マルクス・レーニン主義を硬直化した教条主義的なものが多かった。


それに不満を感じる聶先生に転機が訪れたのは、大学3年生のとき。共産党によって1950年代初期から廃止されていた社会学が復活したと聞いて、社会学に関心を持った。大学院で社会学を学ぶことに胸に踊らせたが、再び高い壁に直面した。高等数学や社会統計学などの知識が必要とされる大学院入試は、とてもハードルが高かった。


しかし、「どうしても大学院に入学したい」一心で、経済学専攻の数学の授業を傍聴し、必要とされる知識を習得して、1982年に北京大学大学院社会学専攻に入学した。


恩師との出会い

大学院で中国における社会人類学第一人者の費孝通教授と出会ったことが、聶先生のその後の人生を大きく変えた。


「大学院での実地調査を通して、やっと自分の脚で中国社会に近づけたと感じることができました。しかし、当時はまだ中国社会の現実に適応するような社会学の理論や研究方法が乏しく、海外から導入してきた教科書を教えられたり、マルクス主義の唯物史観をそのまま社会分析の方法論とされたりしていました。

このような状況で本当に社会の現実を理解する力を付けられるのか、と疑問を感じました。もっと視野を広げて、より多くの学問や知識と出会いたいと思ったところ、費先生から東京大学で人類学を学ぶことを勧められました」


工場の労働者をしていたとき、文化大革命が終わってスタートしたラジオ講座で偶然にも日本語を勉強していた。希望していた英語の放送時間は出勤時間と重なるので、日本語講座を受講していたのだ。大学に入学してからも日本語を履修し、1986年に東京大学大学院博士課程に見事合格を果たした。入試のために来日した際、日本語はまだ初級レベルだったという。


「人類学とは何か、についてまだ詳しくは知らない状態でのスタートでしたが、人類学を学ぶうちに、この学問を好きになりました。何らかの理論を以て人間や社会、文化を判断するのではなく、実生活の実態や、生身の人間の行動から、社会認識を練り上げる研究方法論は、私にとって、専門的な知識の意味を超えて、一人の人間としての社会認識の方法論という意味を持ちました。このような方法論で研究を行なうことが、自分のやりたいことだと感じました」


東大大学院では、中根千枝先生、大林太良先生、伊藤亜人諸先生に教わった。


わからないながらも先に進むと、後になって理解できる

人類学の研究者としてのスタート

博士課程2年から翌年にかけて、博士論文のための実地調査を開始し、中国東北部の一村落を調査地として選定した。7ヶ月ほど村に住み込んで集約的な調査を行なった。


「北京で育ったので、中国の農村についてあまり知らなかったのですが、村で自ら見た農村の現実や農民の翻弄された運命は、自分が教育やイデオロギーの宣伝から受け入れてきたイメージとの間に、大きなギャップが感じられました。草の根から社会認識を築き上げる必要があると感じ、20世紀における一村落の変遷を整理しました」


この研究は、『劉堡――中国東北地方の宗族とその変容』という題目で、1992年に東京大学出版会から出版され、翌1993年に日本民族学会(現:日本文化人類学会)から表彰され、第23回渋沢賞を受賞した。書評は、人類学ばかりでなく中国思想史や、経済学などの領域の学者にも書かれ反響を呼んだ。聶先生の研究者人生の扉が開いた。


研究者としてやること

「社会の現実から目を背けずに、できるだけ忠実に記録したり、様々な要素の相互関連性を把握したり、物事の背後にある文脈や仕組みを理解することだと思っています」


こうした研究姿勢で様々な地域での実地調査通じ、親族、民間信仰、朝鮮族などの少数民族、戦争被害記憶と地域社会、知識人の思想的転換など、多様な研究テーマにとり組んできた。


「学術研究の客観的精神はもちろん重要です。しかし実地調査は、人との出会いの場でもあり、人との触れあい、共鳴があり、そして協力してくれた現地の人に感謝するといったヒューマニズムな体験があります。人間を研究する人類学者にとって欠けてはならないものなのです」


研究者としての心構え

「自分がやるべき、やりたいと思うことに全力で取り組めばよいのです。丹念に調べたか否か、問題の要を押さえたか否か、分析の文脈がはっきりしているか否か、常に自問し、自ら点検することが大切です。

研究者は一流にはなれなくても、一流を目指さなければならない。

研究の成果が論文や本として公表された後、どのように評価されて、どう受けとめられるかは、あまり気にしないことにしてきました」


他人の評価を気にするより、先に自分の道をしっかりと歩むことは、研究者にとって大切な心構えではないだろうか。


生活そのものも観察対象

人類学は文化そのものを研究対象としているため、生老病死、喜怒哀楽、人間関係など、人間に関する全てが研究範囲に含まれている。そのため、聶先生にしてみれば、出産、育児、日本での生活そのものが観察の対象になるという。


子育てや近所付き合い、母親同士の交流、学校の保護者会、市民サークルの活動などを通して、日本における地域社会、親子関係、保育制度、小中高校教育、市民社会などについて学ぶことができたとふりかえる。かつて私立保育園のシンポジウムに親と研究者の二重の立場で参加し、日中の保育文化の比較をテーマに発表したこともあるという。


研究者を目指す後輩たちへ

「自分自身の経験から言えば、初心と志が重要だと思います。初心は、常に研究者としての個性と結びつき、自分がどこに立っているのか、独自の問題意識は何なのか、自らの立脚点を意識すること。


志は、ただ目標を立てるのではなく、目標を目指して進みながらも、怠らずに自らの姿勢に磨きをかけて自らも成長すること。初心を保ち志を遂げるプロセスも大切です。そうすれば、必ずなにかが見えてくるはずです。頑張ってください」


<インタビューを終えて>

研究者という現在のご職業からは想像し難い先生のご経験とその努力に裏打ちされたご自身の哲学を伺うことができ、非常に実り多いインタビューでした。
初心を忘れずに常に一流を目指すという意識で志を成す、という信念を私も真似びたいと思います。
(博士前期課程2年 池田知歌子)