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丸山眞男生誕100周年シンポジウム「現代世界の中で丸山眞男をどう読むか」

2014年6月27日、丸山眞男の生誕百周年を記念するシンポジウムが開かれ、市民・学生など400名以上が参加しました。午前は講演、午後はパネル方式で、フロアもふくめて活発な質疑応答がありました。発表者は老壮青の三世代にわたり、専門は思想史、日米比較文化、文化人類学に及びました。丸山の学問が古典的位置を占めていることが窺えました。図書館の丸山文庫開架部分の見学は好評で、茶話会にも多数が参加しました。なおこのシンポジウムは、文部科学省平成24年度私立大学戦略的研究基盤形成支援事業として採択された「20世紀日本における知識人と教養―丸山眞男文庫デジタルアーカイブの構築と活用」プロジェクトの一環でもあります。


講演

苅部直(東京大学教授)「政治のための教養―丸山眞男百歳」

政治に参加する市民はどんな考え方をすればよいか。そうした意味で「政治のための教養」を切り口として、丸山思想について紹介したい。丸山は戦前・戦中期から思想史研究者として活躍していたが、言論人としての本格的活動は戦後からである。その出発点としての庶民大学三島教室は、庶民に自分の思想を語り、対話の中で自分を見つめ直す相互教育の場として、丸山のデモクラシーへの信念を支えた根源的経験であった。


同時にリベラル・デモクラシーが、20世紀の社会では基盤を掘り崩されているという問題も彼の意識にあった。それは早く「政治化」現象として論じられたが、戦後には、大衆社会でマスメディアが人々の感情を刺戟して熱狂的な政治参加へと動員し、あるいは娯楽情報に関心を集中させて政治的無関心を招き、価値観が画一化する危惧が語られている。


リベラル・デモクラシーを支える理性への信頼と、その存立を困難にする現代的条件の認識とが葛藤するなかで、丸山は思考を続けた。彼が矛盾解決の糸口として考えた一つは「遊び」としての知ではないか。ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』をふまえて丸山が考えたのは、実用性を意図しない「遊び」としての知的営為の役割だった。ルールを共有した上で競いあう「遊び」の修練を重ねることで、異質な者が共存する営みとしての政治に関わるための判断力も培われる。丸山が大学教育、ひいて成人教育一般に期待したのはそれであった。


パネルディスカッション

油井大三郎(東京女子大学特任教授)「丸山眞男とアメリカ文化の交錯」

三点について考察する。① 丸山は『思想の科学』に集まった知米派知識人と交際し、アメリカ思想になじんだ。② 50年代前半には、アメリカ政治学の行動主義を市民的民主主義の変質に対応し、その攪乱要因の均衡条件を探求するものと評価した。他方米国は「赤狩り」時代であり、友人のE・H・ノーマンが自殺した。この面で丸山はアメリカを批判した。


③ 60年代前半に、日本を途上国のモデルにしようとして「近代化論」が出された。米側は数値化できる近代化の指標を示し、日本に適用してプラスの結論を出した。一方日本側は軍部独裁的な体制下で戦争に突入した要因を問題とした。丸山は精神の近代化や価値体系の問題を強調した。この視点はやがてベトナム戦争をへて米側に受容された。一方50年代半ばから日本は経済成長期に入り、大衆消費社会化が進んだ。その中で自立した市民をどう確立するか。「永久革命としての民主主義」を深める作業と共にわれわれの課題であろう。


區建英(新潟国際情報大学教授)「丸山と中国の近代的思考の模索」

丸山の『日本の思想』における課題設定と方法から学んで、文革の原因究明を志した。また丸山の福澤研究にふれ、「独立自尊」が意味する個人の自律や、国民がただ統治の客体になっているような体制を批判する議論に共鳴した。だが自分のめざした思想の価値を問う研究は壁にぶつかった。留学し丸山の指導を受けることで道が開けた。


中国では改革開放政策下で新思想が流入し、経済好転や福祉改善の中で希望がうまれた。また特権階級の腐敗や不公平の中で民主化運動が発展した。丸山はこの運動を支持した。だが「六四」以後、政治的無関心や拝金主義が広がる反面で権威主義的政治が出てきた。今世紀にはいり権利意識が向上し、政権も「親民」政治や「民意政治」を唱えだした。しかし「父母官」による仁政と教化という考えには、伝統儒教的要素の再現が見られる。秩序形成に参与する人民の自主的精神も成長しがたい。丸山の思想史的方法を活用し、精神構造の深層に潜む執拗低音を追跡する必要がある。


趙星銀(東京大学大学院博士課程)「韓国における丸山眞男」

1945年8月15日以降を日本では戦後とよび、「もはや戦後ではない」ともいうが、韓国では「未だ戦後ではない」。朝鮮戦争の停戦協定は休戦の合意にすぎない。軍出身者の独裁政治はこの状況と関連する。植民地、南北分断、独裁を経験して、より民主的な政治とより豊かな経済をどんなバランスで推進するかが韓国知識人の問題である。


この環境で丸山はどう受容されるか。韓国の近代化は植民地性の克服も課題とする。福澤は植民地支配を正当化したと解されており、彼を偉大視する丸山は批判される。だが思想をその可能性において捉える丸山の方法は、親日か反日か、北か南かでは割りきれない韓国史上のグレー・エリアの分析に有効だろう。


聶莉莉(東京女子大学教授)「コメント」

専門分化が進んだ日本で、学問と自分の問題意識(政治に翻弄される草の根の中国社会の分析)との衝突に悩んだ。「超学問的な動機」と「厳密な学問的操作」との結合という丸山の南原評に励まされた。文革の狂乱後「自分とは何か」を自問した。「個の自立」という問題に通ずる。丸山が自分の経験(拘留、兵営生活等)を概念化し、普遍的問題を出した点にも共感した。



【油井氏への質問と油井氏の回答】


質問:ドイツ思想から多くを学んだ丸山がアメリカ文化と交錯したことは、丸山思想の自然延長線上にあるのかどうか。またアメリカ思想を中心に学んだ日本人学者と比べて丸山の特徴はどこにあるか。


油井氏の回答:第一点の丸山眞男にとってのアメリカ思想の意味についてです。私は丸山思想の専門家ではないので、お答えがしづらいのですが、この間、丸山さんがアメリカの近代政治学をどのように読んできたかを調べる中で非常に興味深いと思ったのは、丸山さんがアメリカ流の近代政治学の本を読んで非常に分かりにくいという反応をしめしたことの意味についてです。それは、丸山さんが親しんできたドイツ思想で語られるような体系性や歴史的な展望がアメリカ思想には希薄であるためだろうと思います。それをアメリカ思想の欠点とする受け止め方が日本では強かったと思いますが、この問題の背景には、アメリカの政治学や思想一般の傾向としてプラグマティズムの影響が根強く存在するという問題があると思います。つまり、アメリカでは、現実生活のなかで思想がどのような効用をもつかとか、現実生活の改良にどう役立つのか、という実践的な関心が強いので、体系性よりは実用性を重視する傾向が強いのだと思います。このような実用主義的な傾向は戦前の日本の思想の中では弱かったので、丸山さんもだいぶ戸惑ったのではないかと推測しています。


しかし、他方で、丸山さんは、日本の思想がドイツなどを中心としたヨーロッパの輸入学問的だという点を批判し、日本の現実に根ざした思想に作り変える必要性を強調していましたので、現実社会での思想の実用性を重視するアメリカ流の思想に興味をもったのではないでしょうか。また、丸山さんは、ジャーナリストであった父親やその友人の長谷川如是閑の影響でアメリカの大衆文化やジャーナリズムにも関心をもっていた関係で、現実社会の新しい動向に絶えず鋭い関心を持ち続けていた点にもプラグマティズムとの接点があったと思います。戦後の早い時期に丸山さんが鶴見俊輔さんなどの誘いを受けて、知米派知識人を中心とする思想の科学研究会に参加したのもそのせいだと思っています。


第二点のアメリカ思想を中心に学んだ日本の学者と丸山さんとの違いの問題ですが、これは世代差の問題につながると思います。戦後に政治学などの研究を始めた世代の多くは、アメリカに留学し、アメリカ流の近代政治学や近代経済学を摂取して帰国し、戦後の日本でアメリカ流の近代諸科学を広める上で大きな役割を果たしました。しかし、その近代諸科学は資本主義体制内の改良には強い関心を抱きましたが、体制自体を歴史的に相対化する姿勢は弱かったと思います。それに対して、丸山さんは、戦前のヨーロッパ思想の影響を受けて、戦後も歴史性や体系性を重視した学問を継続していましたので、その点に差異があると思います。


この点に関連して興味深いのは、1960年代に入り、アメリカでは人種問題やベトナム戦争の影響をうけて、マルクス主義なども含めたラディカル諸科学の復興が起こった点です。日本史研究の分野でも、マルクス主義の方法を取りいれて研究をしていたE.H.ノーマンが1950年代の赤狩り時代には無視されていたのに、1960年代に若手であったジョン・ダワーなどによって「発見」され、復権を遂げてゆきました。しかも、そのきっかけは、自殺したノーマンに対する丸山さんの追悼文の英訳をアメリカの若手研究者が発見し、それがアメリカの日本史研究学界におけるノーマン復権につながったということです。


【區氏への質問と區氏の回答】


質問:中国内だけでなく、台湾や東アジアで丸山の思想史的研究はどう受容されているか。


區氏の回答:私は主に中国文化圏での丸山の受け入れ方を紹介しよう。翻訳書について、台湾では、先に『日本政治思想史研究』(台湾商務印書館1980年)と『現代政治的思想与行動』(台湾聯経出版1984年)があった。大陸では、私が翻訳した丸山の福沢論『福沢諭吉与日本近代化』(学林出版社1992年)が最初で、この訳著は後に『日本近代思想家福沢諭吉』に改題されて再出版された(世界知識出版社1997年)。後に王中江さんも『日本政治思想史研究』を訳して出版した(三聯書店2000年)。また私と劉岳兵さんと共訳した『日本的思想』(三聯書店2009年)もある。これらの訳書によって丸山真男が人々の視野に入ったが、同時に丸山に関する紹介や論述も少数ながらあった。中でも孫歌さんが言った丸山の「ジレンマ」(両難)説が広く伝わり、一つの丸山イメージとなっている。


しかし実は静かな中で、人々は丸山の福沢論をよく読んでいる。より多くの人に読んでもらうと期待した北京大学教授の努力があってこそ、『福沢諭吉与日本近代化』が再出版された。大陸では非常に多くの人が読んだに違いない。台湾も同じで、2013年秋私が台湾を訪れた時、ある大学院生が『福沢諭吉与日本近代化』を手に持っており、台湾大学図書館から借りたと言う。その本は長い年月を経た古本のようで、手に触れられるところは濃い茶色になっている。今この訳著は売り切れたが、電子版があり、大陸と台湾の大学教員は電子版をネットから利用して授業に使っていると言う。本の内容についての反応は様々だが、大多数の読者は感銘を受けて高く評価する。ただし福沢に違和感を持つ読者も少なくない。福沢の「脱亜論」などのアジア論への視線は厳しく、これは福沢の「脱亜論」の背景を説明するだけで解消できることではないようだ。そういう説明は無用で、福沢のアジア論に問題があると人々は思っているが、だからと言って、福沢の全思想を否定することにはならない。むしろ丸山の福沢解釈を通じて価値ある思想を受け入れている。福沢より丸山への関心が高いようだ。『日本的思想』は出版されて数カ月、ベストセラーになった。


これに対し、丸山の徂徠学研究は大陸と台湾の学界にとっても受け入れ難いところがある。それにもかかわらず、中国文化圏の研究者から見れば、それは必ず対面しなければならない、避けて通ることができない重要な存在だ。今、研究者は伝統の欠陥の克服を図りながら、伝統の優れた要素を救出しようとし、朱子学を思想的検討の重要な対象としているが、その中で丸山の徂徠論が重要な参照としてたびたび取り上げられている。


丸山に関する学術論文は韓国ほど多く出ておらず、本格的な論文が中国にまだ現れていないが、私見では、それは、丸山が人々の研究対象とされているのではなく、人々自分自身の思考に導入され、問題意識を共有しあるいは交錯する存在となっているからだと思う。この意味で、丸山思想史学は、今の中国にとって一つの貴重な知的資源だと言えよう。


【趙氏への質問と趙氏の回答】


質問:召集された丸山は朝鮮に滞在し、その経験を活かして植民地主義批判を行った。彼の「国籍性」という際、それをどう評価するか。


趙氏の回答:第一に、丸山において植民地朝鮮の経験が兵隊経験と重なっている点である。つまり、兵隊においてはエリート出身の二等兵であったため、上官から虐められる弱者の位置にあるが、植民地の人々からは日本帝国の兵士として恐怖と憎悪の対象として見られるという、被害者と加害者としての両面性をここで経験したと思われる。丸山の終戦直後の論文「超国家主義の論理と心理」に登場する「抑圧移譲」、即ち上から加わった抑圧を下のものに移譲して行く暴力的な秩序の分析の背後には、この経験からの実感があったと思われる。


第二に、敵と味方の区分に政治的なるものの本質を規定するシュミットの政治観が丸山の政治学に大きな影響を与えている点から考えると、朝鮮半島の分断状況は丸山政治学のケース・スタディとして非常に興味深い問題である。休戦状態のまま成り立っている二つの国家は、その国家の正当性が敵と味方の区分のみにあることになるからである。さらにそのような政治的大状況が、社会、経済、分化などの領域の隅々まで滲透し、各領域において本来は独立的であるべき価値の問題を決定する「政治化」が非常に顕著な社会でもある。さらに丸山の分析枠を通して韓国と日本を比較することは、どこまでが「日本的」なものか、或は「アジア的」なものかを考えるためにも有用であろうと思われる。


第三に、「国籍性」の問題に関しては、丸山が膨張主義的な超国家主義ではなく、一国に限定された健全なナショナリズムの価値を評価している点を想起してもらいたい。個々の自律的な構成員たちが、一つのバウンダリーの中で共同体を形成し、維持することの重要性を丸山は意識していたと思う。おそらく個々人の間の健全な関係の延長線上で、国家と国家の間の理想的な関係を構想したと思われるが、このような健全なナショナリズムの持つ政治的価値について、もう一度考える必要があると思われる。