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丸山眞男没後20周年記念国際シンポジウム「新しい丸山眞男像の発見 その世界大の視圏と交流のなかで」

はじめに

2016年10月14日(金)、丸山眞男の没後20周年にあたり、東京女子大学において国際シンポジウムを開催した。丸山眞男記念比較思想研究センターの主催で、統一テーマは「新しい丸山眞男像の発見 その世界大の視圏と交流のなかで」。文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「20世紀日本における知識人と教養―丸山眞男文庫デジタルアーカイブの構築と活用―」プロジェクトの一環であり、海外から、各国で丸山眞男研究を主導する報告者を招聘した。


同プロジェクト代表の安藤信廣氏(東京女子大学教授)が当日の総合司会を務めた。メイン会場は23号館23101教室。開場して間もなくほぼ満席となった。


午前11時、小野祥子・東京女子大学学長の挨拶で開会した。その挨拶の中で、これまでの丸山眞男文庫の整理作業によって、生前の丸山眞男の広く、深い、海外との交流が明らかになったことが紹介された。


Ⅰ 講演

平石直昭氏

まず午前の部では、丸山眞男文庫顧問の平石直昭氏(東京大学名誉教授)が「丸山眞男文庫の意義と可能性について」と題して講演した。本講演は、東京女子大学丸山眞男文庫の設置背景、所蔵資料の整理・調査から公開にいたる経緯、そして意義と可能性を論じて、それらを生かした今後の展望を示したものである。


1996年8月15日の丸山眞男逝去から約2年後の98年9月、東京女子大学で丸山家所蔵資料の受贈式が行われ、船本弘毅学長(当時)と丸山ゆか里夫人との間に「覚書」がとりかわされた。生前の丸山は自身の資料を、ライブラリーの充実に苦しんでいる大学や研究機関、自治体の図書館等に寄贈し活用してほしいと考えており、資料の受入れ先をめぐって多くの人が奔走した。しかし亡くなる少し前に、東京女子大学への寄贈を彼が希望していたことがわかり、この意志を汲んだ丸山夫人の意向をうけ、松沢弘陽氏(当時、国際基督教大学教授)が旧知の大隅和雄氏(当時、東京女子大学図書館長)に打診。大隅氏の尽力もあり、東京女子大で受け入れることを理事会が決定した。

こうした動きの中で、(1)同大学では、資料を受け入れる体制を整備した(図書館内の専用スペースの設置、所蔵資料の管理・運営主体となる組織の発足など)。(2)資料搬送前の丸山宅では、松沢望氏、牛田尚子氏が丸山宅内の図書の配架状況の記録をとるなど、予備調査を行った。(3)丸山の指導をうけた研究者(松沢弘陽氏、植手通有氏、飯田泰三氏、平石直昭氏、宮村治雄氏、渡辺浩氏)が資料の整理・調査に従事する体制として、丸山文庫協力の会を発足した。のちに協力の会には若手研究者(苅部直氏、眞壁仁氏、中田喜万氏、河野有理氏)が加わり、現在に至る。(4)丸山夫人より東京女子大への多額の寄付金として資金的な援助がなされた。


資料の整理・調査から公開にいたる過程には、資料の性質によって2つに分けられる。(1)図書・雑誌と(2)ノート・草稿類である。


(1)図書は、丸山宅の配列状況に基づいて登録。そして図書館員が精力的に整理を進め、2000年12月、その成果を『丸山眞男文庫寄贈図書資料目録』にまとめ、翌年3月に丸山夫人に寄贈した。ただしその後も丸山家から資料の寄贈がつづけられており、より正確かつ新しい情報を反映した冊子体目録の刊行は今後の課題である。なお、書誌の電子入力が進められ、東京女子大学図書館OPACによる所蔵図書の検索を可能としている。


資料の公開にあたり、丸山による手沢のない図書・雑誌は、丸山の意志に即して一般に開放することが望ましいこと、手沢のある図書・雑誌は厳重に保管する必要があることを確認し、手沢の有無の調査を開始。(a)そして、2005年4月、手沢のない図書(約12,200冊)を公開。(b)次いで、2006年1月より、手沢のある図書(約5,800冊)の該当箇所の調査を開始。手沢のあるページを電子化(PDF化)し、点検作業などを経て2010年7月、当該ページをPDFによって公開した。(c)さらに、2010年度より雑誌の手沢の調査を開始、図書の公開方針を準用し12年5月に公開した。(d)最後に、楽譜類は土合文夫氏(東京女子大学教授)による調査(2011年春~12年秋)をふまえ、13年5月、手沢のないものを公開。手沢のあるものは、2014年3月より段階的に公開を開始し、現在すべて(434冊)が閲覧可能である。


(2)ノート・草稿類は、1999年11月に、文庫協力の会メンバーが調査を開始した。当初確認されたのは1,070件だが、なかには段ボール1箱を1件と数えたものも含まれ、精査が必要とされた。そこで、調査票の書式を決め、メンバーが分担し、各資料の内容を調査票に書きとめていく作業を進め、2003年秋にこの第1段階の調査を終えた。


つぎに、資料検索の便宜のため、分類項目を設け、各資料の分類作業を進めた。前述の若手研究者の協力を得、分担して作業を進め、その後、メンバー1名が全体の不統一や重複を整備し、2006年8月、この第2段階の作業を終えた。


第3段階として、資料を一般に提供するにあたり、以上の情報を電子目録として公開するため入力作業を開始。その際、資料タイトルと内容との対応性の確認、重要度の高い資料を電子化(PDF化)し公開するための選定と実務作業等を進めた。こうして、2009年7月より部分公開を開始。2011年7月、ほぼすべての資料を公開した。


なお、この間、東京女子大学は、2001年10月、丸山眞男記念比較思想研究センターを発足させ、体制を整備。2005年3月には、機関誌『東京女子大学比較文化研究所附置丸山眞男記念比較思想研究センター報告』を創刊した。


以上のような背景と経緯をもつ丸山眞男文庫の意義と可能性として以下のものがあげられる。(1)20世紀日本の知識人がいかに時代の課題と格闘しながら、自己の思想と学問を形成したか――そのもっとも優れた一例を丸山に即して、文庫所蔵資料によって追経験することができる。(2)丸山文庫には、吉野源三郎が整理した平和問題談話会資料(2003年2月、岩波書店より寄贈)や、知人らが丸山に宛てた書簡類(2004年8月、丸山家より追加寄贈)があり、これらの調査を通じて日本の知識人運動、知識人たちの知的交流の軌跡をたどることができる。(3)過去の知識の貯蔵庫である大学が、優れた学者のアーカイブズをもつことは、日本社会全体に学問的思考を根付かせてゆくための有力な拠点となる。丸山文庫はその一つの範例としての意味をもつ。


II パネルディスカッション

昼の休憩をはさんで、午後はパネルディスカッションが行われた(司会は中田喜万(学習院大学教授)が担当)。


①報告

まず、第1部「報告」として、4名の研究者による研究報告が行われた。登壇者と各論題は次のとおり。


  •  ヴォルフガング・ザイフェルト氏(ハイデルベルク大学名誉教授)
    「丸山眞男とドイツの思想・学問――戦前、戦中、そして戦後」
  •  孫歌氏(中国社会科学院文学研究所教授)
    「丸山眞男の「三民主義」観」
  •  アンドリュー・E・バーシェイ氏(カリフォルニア大学バークレー校教授)
    「プロテスタント的想像力――丸山眞男、ロバート・ベラー、そして日本思想研究に関する覚書」
  •  金錫根氏(峨山政策研究院教授)
    「韓国における丸山眞男の思想・学問の受けとめられ方」

なお、バーシェイ氏は諸事情により欠席されたため、事前にご提出いただいた原稿を中田が代読した。各報告の内容は以下のようなものであった。


◇ヴォルフガング・ザイフェルト氏「丸山眞男とドイツの思想・学問――戦前、戦中、そして戦後」

ヴォルフガング・ザイフェルト氏

本報告は、丸山におけるドイツの思想・学問の受容、読書経験という観点から論じられたものである。丸山みずから、自身の思想・学問の形成にとってドイツの学者の存在が大きかったことを語り残している事実に基づく。ただし、重要なのは、ドイツ国籍の学者をとりあげたことではなく、丸山が挙げたドイツ人学者における学問的方法論の内容である。そうして本報告では、丸山の旧制高校の時代から晩年までをたどっていく。わけても、戦前と敗戦直後(1946年~50年代の時期)とに焦点を当てる。


第一に、敗戦までの時期は、3つの読書経験に要約される。(1)ヘーゲルとマルクス、(2)カール・マンハイム、(3)マックス・ヴェーバーである。

まず、ヘーゲルとマルクスを、丸山は、高校・大学の学生時代に、語学(ドイツ語)学習と並行して読み進めていった。両著作から丸山は、とくにその歴史哲学に含まれた発展段階論に共感した。しかし他方、丸山は、とくにマルクス(主義)の認識論に批判的な見方をもち、それと立場を異にする新カント派にも満足せず、新しい方法を探究した。


次に、マンハイムから丸山は、思想史の方法を学んだ。「思想史の方法を模索して――一つの回想――」(1978年)の中に、この点に関する丸山の回想がある。それによれば丸山は、新カント派とマルクス主義が共有していた認識論的前提とは異なったものを、マンハイムの中に見出した。とくに「ペスルペクティヴィスムス(Perspektivismus)」という認識方法がそれである。それは「思惟主体」の認識内容にその人物の社会的立場が深く関係しているという理解に立って、より「プルーラルで、しかも動的な展望が現われ」るというものである。


最後に、ヴェーバーについて丸山は、たびたび言及している。前掲「思想史の方法を模索して」にも見られるが、ここで丸山が取り上げたヴェーバー著作は『政治論集』である。このことは、丸山自身が語り残しているように、日本の統治構造の分析に役立てられることはあっても、思想史の方法に関わるものではなかった。


第二に、敗戦直後(1946年~50年代)の丸山の読書経験で重視すべきは、カール・シュミットとフランツ・ノイマンである。論文「超国家主義の論理と心理」(1946年)において丸山は、「価値に対する中立性」を特徴とする西欧の近代国家と、天皇を最高価値とした日本の近代国家とを比較した中で、シュミットを参照している。そこで丸山は、為政者の権力観を問題にした。


他方、ノイマン『ビヒモス』(原著1944年)は、丸山のファシズム論において大きな意味をもった。「ファシズムの諸問題」(1952年)の中で丸山は、E・レーデラーやP・ドラッカーと異なる独自のファシズム論を展開した、ノイマンのこの書を高く評価している。とくにノイマンは、フランクフルト学派の思想家と交流したことにも留意すべきである。


1960年代以降、ドイツの思想・学問に対する丸山の言及はほとんど見られなくなった。その理由として、(1)英米の学者との親交が深まっていったこと、(2)東西に分裂したドイツに見るべき思想的または政治的状況に乏しかったこと、(3)丸山が日本の思想的伝統の問題に関心を集中していったことが挙げられる。


今日の視点から見直すとき、当時のドイツには、フランクフルト学派に代表される思想・学問が台頭していた。彼らの思想・学問が戦後ドイツ社会に果たした役割と、丸山が日本社会に果たした役割とには共通点がある。そして、人民に対する為政者の権力のあり方についての知見など、彼らを生んだ日独両国の人びとに限らず、今日の政治的・社会的状況において学ぶべきものがある。今後両者の比較などが研究課題となるだろう。


◇孫歌氏「丸山眞男の「三民主義」観」

孫歌氏

本報告は、丸山の講演記録「孫文と政治教育」(1946年)に基づいて、孫文の「三民主義」論に対する丸山独自の理解とその意義を論じたものである。また、両者の考えのズレから、政治教育に対する丸山の考えと実践、その特質を論じている。


「民族主義」「民権主義」「民生主義」を内容とする「三民主義」は、非政治的な中国の民を政治的国民(「国族」)に変え、革命勢力に育て、建国の主体としていくために、孫文が行った講演の原稿を主なテクストとする(『三民主義十六講』1924年)。

丸山は孫文の「三民主義」論の中でも、三民主義の課題、その課題における政治教育の目標、それを実現する方法に問題を絞って、分析を行った。丸山は、「民衆の政治化」という孫文の意図を的確に理解していた。「民衆の政治化」とは、(1)民衆一人ひとりが日常の政治性を担う主体となること、(2)生活から遊離した「政治」を民衆の日常生活の中に引き下ろすことを意味する。しかも丸山は、孫文がここで高等な理念を掲げて民衆の動員をはかったのではなく、人びとの直接的な利害に訴えたことに着目していた。この孫文の主張の背景には、1923年の国民党改組にともなう革命方針の転換があったからである。このようにして丸山は、孫文の「三民主義」を、その背景にある問題意識を通じて、内在的に理解しようとし、的確に把握した。


しかし、丸山の理解した「三民主義」と孫文が主張したそれとの間には重要なズレがあった。それは中国または東洋の「伝統」に対する認識の中にある。近代西洋の政治思想の概念を用いて「三民主義」を論じた孫文は、西洋民主主義を肯定すると同時に、他方では模索中の政治体制であって、理想的なものではないと考えていた。そうして中国の伝統的な観念の中に、新しい中国を築く可能性を見ていた。


具体的には、孫文は「修身」「斉家」という私的な「徳」を公的なものへ転換しようとした。このことは、孫文が非政治的自由と政治的自由とを区別しなかったことを示している。孫文は、伝統的な個人や家族本位の考え(非政治的自由)を、郷族社会へ拡大し、そうして外国に対する国族の自由(政治的自由)として再構成しようとした。また、「忠誠」の観念を用いて、その対象を皇帝から人民に転換しようとした。そのとき孫文は、『三国志』の故事に基づき、人民を無能な君主(阿斗、のち劉禅)に、為政者を有能な丞相(諸葛孔明)になぞらえた。こうして孫文は、「民衆の政治化」(国族)と中央集権体制の確立という課題を同時に成り立たせ、西洋列強に対抗してゆくことを考えた。


孫文がこのように伝統的な観念を積極的に用いたことを、丸山はよく理解していたが、丸山にとってそのことはどこまでも戦略的な判断にとどまるものであった。丸山によれば、中国の伝統的観念には、戦略的な利用価値以上のものはない。そのような丸山の「伝統」観は、孫文を福沢と関連づけて理解したという後年の回想からも首肯できる。儒教的「伝統」に対する福沢の批判に丸山は学んでいた。


社会変革のために要請される政治教育について、丸山自身は、伝統的観念の積極的利用を中心的なテーマとしなかった。論文「福沢に於ける「実学」の展開」(1946年)で丸山は、福沢が西洋の物理学的思考を導入して認識論的転回をはかったことを論じている。対象を客観的に把握する態度と、その要件としての主体的精神、両者を媒介する実験精神を養成するためには、「伝統」との断絶が必要である。政治教育の内容を規定する政治学もまた、概念が一人歩きしてきた「伝統」に対して、その概念を民衆の日常生活に引き下ろして再構成していく必要を丸山は考えた。


1960年代初頭まで丸山はこの政治教育の仕事を「夜店」として展開し、60年代以降は、日本政治思想史の講義・研究という「本店」によって問いつづけた。「古層」論はそうした問題意識の現われと見ることができるのではないか。


◇アンドリュー・E・バーシェイ氏「プロテスタント的想像力――丸山眞男、ロバート・ベラー、そして日本思想研究に関する覚書」

本報告は、報告者が丸山に見出したプロテスタント的な思考様式の意味を論じ、その内容を、丸山と親交をもった宗教社会学者、日本思想史研究者のロバート・ベラーにおけるそれと比較したものである。


丸山が人間の根本悪に眼差しを向けていたことは、ドストエフスキーや親鸞について書いた書簡やメモなどが暗示している。また、内村鑑三門下の南原繁をみずからの師としたことによって、無教会派の思想は丸山に一定の知的影響を与えた。丸山において、プロテスタント的想像力は、人びとが影響されやすい権力衝動の心理、伝統や社会的惰性、画一化への圧力といったものに対する認識を可能にさせ、それによって目の前の状況を変えるために行動する近代的人格の型の把握に導くものだった。このようなプロテスタント的想像力は、見えざる権威を想定するが、これは近代天皇制の権威主義やマルクス主義の正統的世界観と対立する。


他方ベラーも、違った方法ではあるが、丸山に似た、自己変革と持続的革新を可能にするような近代社会を構想した。しかし、日本社会の中で宗教的原理の果たした役割について、両者の見解は異なるものだった。


『徳川宗教』(1957年)においてベラーは、プロテスタントの世俗内禁欲倫理に対応するものを日本の宗教的伝統の中に発見した。とくに重要なのは、経済的合理化が政体の合理化の過程で補助的な役割を果たしたという発見である。それまでの伝統的な藩主や藩、天皇に対する身分的な忠誠は、疑似普遍的に機能していくようになった。その限界は戦後日本の民主主義の価値さえ低下させていると彼はいう。しかし全体として本書でのベラーは悲観的な見方をとっていない。


それに対して丸山は、ベラー『徳川宗教』から刺戟を受けたものの、天皇への崇拝は非合理的な伝統主義を再生産するものと考えた。現世と緊張関係をもつはずの禁欲倫理は、日本社会の中には見られないものだった。


1960年代初めに日本に旅したベラーは、現代日本に関心を向け、それによって書いた論文の中で、丸山の批判を受け入れた。ベラーの関心は宗教改革のあり方に向けられ、あるべき改革社会像は、当時のベラーの日本論を特徴づけた。社会の中に個人を埋め込み、社会と個人を区別しないような価値範型をground bass(basso ostinato)と呼び、日本の隠れた超越の伝統はこれと闘わなければならないと主張した。しかしベラーの日本に対する関心は、60年代後半には実質的に終息していた。米国の状況を通じてベラーは、近代化の現実形態が奇形であると考えるようになった。


丸山とベラーはそれぞれ、対比されるべき代表的な作品をもっている。丸山「超国家主義の論理と心理」(1946年)とベラー「米国の市民宗教」(1966年)である。丸山は、この論文で帝国の病理を批判し、これ以降、新しい民主的意識のために書き行動した。しかし60年代後半になると彼は、そうした活動を「夜店」と称してそこから退き、「古層」論への探究に向った。


対照的にベラーは、公民権運動とベトナム反戦運動の中で、「米国の市民宗教」を書いた。時代の潮流が新自由主義に向かうにつれ、「改革後」社会としての米国は、ベラーにとって、米国のプロテスタント的規範の欠陥の現われとして映った。こうしてベラーの関心は、「枢軸的突破」に向けられた。最後の大作「人間進化における宗教」(2011年)で彼は、進化の所産として「枢軸的突破」(古代イスラエル、ギリシア、中国、インド)を取り上げ、欲望が暴走する世界で人間性が生き残る最善の希望をそこに見出した。


他方、丸山は、「正統と異端」というキリスト教的問題構成から日本の思想史的分析に立ち向かった。しかし問題構成と対象との関係は適したものではなかった。対象が目の前で変化していく過程で丸山は「精神的スランプ」に陥った。こうした経験を経て、丸山の弁証法的思考は原初の「起源」に向ったとき、「否定」を伴う「古層」論として現われた。ベラーが「枢軸的突破」に希望を見出すことが出来たのと対照的であった。


◇金錫根氏「韓国における丸山眞男の思想・学問の受けとめられ方」

金錫根氏

本報告は、過去の一時代を築いた丸山の思想・学問が、現代の韓国社会においてもつ意義を論じたものである。韓国における丸山の思想・学問への認知、受容、理解の3点について論じる。


丸山が明確に認知されたのは、1930年代、40年代に生まれた第一世代(朴忠錫氏、崔相竜氏)の留学による。それより先、1910年代生まれの学者(洪以燮氏、李用煕氏)が丸山を「発見」していた。彼らは丸山の思想史研究の視座、またはナショナリズムに対する分析に着目した。

丸山の思想・学問の受容は、著作の翻訳作業によって促進した。とくに1990年代以降、報告者が丸山著作の翻訳を進めてきた。それまでは、日本語著作の翻訳自体が主流でなかった。学界における欧米志向、反日感情、翻訳作業への軽視といった事情があった。


しかし、『日本政治思想史研究』の韓国語訳(1995年)をきっかけに丸山は着目されるようになり、『現代政治の思想と行動』(1997年)、『忠誠と反逆』(1998年)、『日本の思想』(1998、2012年)、『「文明論之概略」を読む』(2007年)、『戦中と戦後の間』(2012年)と訳書が刊行されつづけている。現在、『丸山眞男講義録』第六冊、第七冊の翻訳作業が進んでいる。


これらの訳書を通じて、丸山の思想・学問は、理解を深めるべき研究・評価の対象として認識されるに至った。近年では(2013、14年)、丸山眞男を主題とした学術シンポジウムを開催するに至っており、その様子は韓国の新聞でも大きく紹介された。


もっとも、丸山への評価は否定的なものもある(なかには日本での議論を紹介したもの)。(1)朱子学的思惟の解体と近代的思惟の形成を中心とした丸山の思想史認識の問題。(2)丸山における「近代主義」的ないし「国民主義」的思想の問題。(3)丸山の主張は西洋を理想化し、日本(アジア)に足りないものを指摘した欠如理論という批判。(4)侵略主義的にも読める福沢諭吉の思想を丸山は好意的に評価している(または誤って解釈している)という批判。(5)「古層」論は丸山が自身の主観を歴史に投射させたもので、歴史的事実から乖離しているとする批判。その他、丸山のファシズム論への批判なども出てきている。これらの批判には問題もあるが、議論を通じて、今後ますます丸山への理解は深められるであろう。


いかなる批判によっても丸山の思想・学問の普遍的価値は変わらない。個人の「主体意識」と「良心」、「責任」といった諸概念、「永久革命」としての「民主主義」という理念、それに基づく多数の専制やポピュリズムへの批判などは、現代の韓国社会を分析する上で不可欠のものである。また「古層」論も、戦略的に用いることによって、「韓国化」の現象に対する批判的認識を可能にする。


ただし丸山の思想・学問の現代的意義は、韓国社会にだけ当てはまるものではない。1930年代の帝国の時代を連想させる現代の日本政治に対して、丸山の遺産は一層顧みられるべきであろう。このとき、丸山の思想・学問は、自己反省と他者理解をうながす良き「鏡」となってくれるにちがいない。


②討論・質疑応答

小休止ののち、第2部として「討論」を開始した。


黒沢文貴氏

まず、コメンテーターとして黒沢文貴氏(東京女子大学教授)が質疑の口火を切った。先行研究に照らしながら、「新しい丸山眞男像」は、丸山の思想(形成過程)と人格(形成過程)との交互関係に配慮して追究することで「発見」されていくものという見通しを示した上で、各報告に対して、主に以下のような問題が示された。


(1)ロバート・ベラーと丸山との人格的交流を背景にもつ思想的交流の内容を扱い、丸山の内面に迫ったバーシェイ報告は、とても意義が深い。ここからさらに一歩進めて考えてみたい。他の欧米知識人と丸山との交流はどのようなものであったのか、そうした交流を通じて、丸山が彼らに与えた影響はどのようなものであったか、ベラー等との人格的交流をこえた丸山における米国イメージはどのようなものであったか。

(2)ザイフェルト報告が指摘したように、丸山はドイツ学によって思想を形成したが、他方、同時代のドイツ人学者と丸山との交流はどのようなものであったか。


(3)欧米に比べてアジアについて積極的に語らなかった丸山にとって、アジアがもった意味(竹内好等との関係を含めて)はどのようなものであったか。また、中国や韓国が丸山に与えた影響としてどのようなものが考えられるか。


(4)各国で、若い人びとは丸山をどのように読んでいるか(読んでいないか)。


(5)対象を日本に限定しながらも、つねに普遍的なものを追究してきた丸山にとって、「古層」論もまた、普遍的なものへの意識が前提にされているのではないか。その場合、各国の研究者よりみて、「古層」論の方法的意義としてどのようなことが考えられるか。


これらの問題提起に対して、各報告者の回答は以下のようなものであった。


パネルディスカッションの様子(左からザイフェルト氏、平石氏、黒沢氏)


パネルディスカッションの様子(左からジョリ氏、金氏、孫氏)

  • ザイフェルト氏:アカデミックに属する人びとの間では、英訳版『現代政治の思想と行動』などが読まれ、丸山による一定の影響はあったと考える。ただし、思想史研究としてすぐれた作品の一つ、「忠誠と反逆」は、残念ながらあまり読まれていない。一般の読者層は、日本への関心から、独訳版『日本の思想』を手にとって読んでいる。ただし、とくに若い読者層が抱いている日本への関心は、「禅」や儒教、宗教的なものに対するものが主で、『日本の思想』はそうした人びとにとって極めて難解である。
  • 孫氏:丸山が中国からうけた影響は、ドイツに比べれば比較にならないほど少ないだろう。しかし戦中・戦後、丸山は中国に目を向けつづけ、重要な時期に、短いが的確な分析を行っている。また、竹内好の日記について述べた発言の中で、丸山は中国についての鋭い洞察を示している(そこには多少、竹内からの影響があったかもしれないが、丸山自身の認識といってよい)。丸山の「古層」論は、歴史に内在する動力、「ベクトル」のようなものだと思う。丸山や孫文や他の思想家におけるそうした歴史の「ベクトル」を追究していくことによって、歴史というものについての普遍的な視野が得られるのではないか。
  • 金氏:韓国ではいろいろな丸山批判があるが、その中には、何のための批判かハッキリしないものも多い。丸山批判によって自分を偉く見せようとする者もいるようだ。しかし他方、若い人たちの中には、韓国語訳によって丸山著作を読むようになり、日本に対する見方や考え方が変わったといった反応が見られる。「古層」論は、思想史研究の方法として用いるためには、歴史的事実の確認が求められるので、そうした勉強などにとって有効と思う。しかし、ともすれば、思想史研究のためではなく、自分の思想を語るための道具になってしまいやすいので、注意が必要だ。「古層」論を戦略的に用いると先ほど述べたのは、この点に関連する。

ジャック・ジョリ氏

なお、討論では、丸山著作のフランス語訳を手がけているジャック・ジョリ氏(元英知大学教授)が、主催者の要請をうけて飛び入り参加してくださった。ジョリ氏より、丸山著作(とくに思想史研究)がフランスで翻訳・受容されていく上での制約、今後の翻訳出版の計画とそれによる展望、高校教育(哲学)で丸山著作が読まれていき、丸山の思想・学問がフランスで生かされていくことへの希望等について意見が出された。そして、各国語への翻訳の困難、受容のされ方などについて熱心に議論が交わされた。


おわりに

以上の議論を経て、シンポジウムは、篠目センター長による挨拶で閉会。全体として時間が30分延長し、午後5時に終了した。終了後は別会場にてレセプション・パーティーを開催し、登壇者・一般参加者の別なく交流を深めることができた。


一般参加者から、今後もこうしたシンポジウムや講演会を継続してほしいという感想(そのほとんどが熱意のこもったもの)が数多く寄せられた。


なお、本シンポジウムの内容は、東京女子大学丸山眞男記念比較思想研究センター編集・発行『20世紀日本における知識人と教養―丸山眞男文庫デジタルアーカイブの構築と活用―』(2017年3月)にて読むことができる。


文責・中田喜万(学習院大学教授)、川口雄一(東京女子大学特任研究員)